数年前の話になる。
たまたま通りかかったJAFの事務所前の看板に
「ジャフサイダー あります!」という張り紙があった。
オリジナルのラベルを貼った瓶の写真。そこに書かれた「ジャフサイダー」の文字。
サイダー、という言葉は大人になって久しぶりに聞いた。それにジャフの冠がつく。
JAF、なぜサイダーを販売しているんだ。
しかしその日は休日であり、事務所は空いていなかったため、「珍しいものもあるもんだな。」と思う程度に留め、JAF事務所を後にした。
別の日の話である。
近くを通った私は、ふと思い出しその看板を再び見ることとなる。
「ジャフサイダー あります!」
サイダーはサイダーでもジャフサイダー。
JAFの事務所、一般人が入るとすればそれは加入か、何かの手続きか…。
サイダーの購入のために…?事務所に…?
「…ジャフでサイダーを買ってみたい。」
この特殊な体験をしてみたい。そう強く心に秘めるようになる。
そう。これは、「平日に休みをとった際の、とっておきの体験」となると確信したのだ。有給をとった時にしかできないこと。それがジャフサイダーを飲むこと。
今すぐじゃなくていい。何か休みを取る機会があれば、この特別な体験をしよう。
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それが実現するには少し時間が必要だった。
有給を取ることはあったのだが、飛び石連休の合間に取得し旅行にあてていたりと、営業時間にそこへ向かうことができないまま時が過ぎた。
そんな中、体調を崩し有給をとり、『ご自愛』として1日プラスで休んだ私は、ジャフサイダーのことを思い出した。社会復帰のリハビリも兼ねて…と自分に言い聞かせつつ、JAFの事務所へと向かうことにした。
はて。
事務所に到着し、看板に例のポスターがなかったことに気がついた。
「まぁ…新発売ではなくなったから、大々的に宣伝していないのであろう。」そう思うことにして、私は人生で初めてJAF事務所の中に入った。(JAFの会員ではあり、会報誌も読んでいるが、事務所に入ったことがある人は多くないだろう。)
中は来客のための接客施設のようなものではなく、文字通りこの支部で働く人達の「事務所」であった。とはいえ、一般的な来客以外にも業者は来るのであろう。受付…というのか、来客用のカウンターーー執務スペースとの境界――が設けてある。
洋服を着た男性が入ってきたことで、カウンターの近くにいた女性がこちらに目を留めた。私はというと、入り口の近くに並べてある各種パンフレットを見ていた。しかし、ここには必要とする情報がない。こちらを見る女性と目が合う。私は意を決して話しかけた。
「あの、ジャフサイダーを飲みたくて来たんですが…。」
女性の顔に、困惑の色が浮かんだ。
おかしい。
以前看板に「ジャフサイダー あります!」と強く書かれていたのに。
その商品名に、明らかにピンと来ていない。
「…?サイダー…ですか…?少々お待ち下さい。」
女性は数歩引き返し、同僚へ声をかけた。
なるほど、最近入った人なのだろうか。そもそもサイダーを求める来客が殆どいないのだろうか。
同僚への確認を終えた女性が戻ってきた。
「すいません、サイダーはもう提供していなくて。」
…こうして、私の「有給でやりたいこと」のささやかな野望は失われた。
期間限定だったのか、売れ行きが芳しくなかったのか。もうわからない。今調べても殆ど情報が出てこない。
JAFの人に「サイダーはないか?」と聞いて困惑させるトンチンカンな客になる、という稀有な経験はできたが、そうではない。ほしかったのは、そういう経験ではないのだ…。
これは教訓だ。
ほしいと思った物、行きたいと思った場所。会いたいと思った人。それらはずっとあるわけではない。いつの間にか二度と出会えなくなってしまうことがある。
夏。爽やかな炭酸を欲する季節になると、欲望が泡と消えたジャフサイダーのことを思い出す。