「なんかさぁ、」
就寝前、目を閉じながら隣の妻に話しかける。『なんかさぁ、』で始めるのは内容を整理せずとりあえず話しかけるときの口癖のようなものだ。
「結婚式とか、引っ越しとかの『暮らしが変わる』大きなイベントは明確に日付が決まっていて、『あと何日後に』…とか、『とうとう明日は』…とか身構えられるけど、出産予定日はあくまで目安だから、なんか心がふわふわしてしまうね。」
出産予定日を10日後に控えている。『初産だから予定日より遅れることが多いよ』と同僚から言われたり、はたまた初産だった友人の家では予定日より2週間ほど前倒しで産まれてきたり。予定は未定でそわそわする日が続いている。あといくつ寝ると子どもに会えるのだろう。二人で過ごす生活が一変するのだろう。
「たしかにね。」と返事がある。むにゃむにゃと会話をしてこの不思議な感覚をふんわり共有したのち、眠りについた。
深夜2時頃に目が覚める。寝室の外が明るい。臨月を迎えてから深夜にトイレが近くなるのは妊婦あるあるだという。今夜もそれだろうか。いや——
「破水したかも。」戻ってきた妻がそう告げる。
不思議と冷静に布団から身を起こし、「OK」と何がOKなのかわからん返事をした。どこかで予感めいたものがあったのかもしれない。ふたりとも淡々と動き始め、私はクローゼットに手をかけて着替え、妻は病院に電話をかける。妻は大変に偉いため、あらかじめ出産・入院バッグを用意していた。あれっ、私のできる準備、なさすぎ……?着替え終わるとバッグを玄関に運び、タクシー配車アプリを開く。こんな時間にも関わらず駅前に数台タクシーが停まっており、配車ボタンを押せばものの5分くらいで到着するようだ。
妻の電話が終わり、タクシーがすぐ呼べることを共有する。ほとんど準備ができているので、あとは妻がパジャマから着替え、荷物の最終確認をするだけ。痛みやしんどさの加減がわからないので、妻の状況を伺いながら、妻のゴーサインを受けてタクシーを呼ぶ。
荷物を持ち、妻の歩行を支えながら外へ出る。こんな時間に外へ出るなんて何年ぶりだろう。冷たい雨が降り、シンと静まり返った住宅街に既にタクシーが待ってくれている。シートが汚れないようにバスタオルを敷かせてもらい、病院へ向けて動き出す。「この時間ですので正面ではなくて夜間用入口に向かいますね。」と運転手さん。さすがにそのあたりをご存知なのは安心だ。
事前に当日のシミュレーションをしていた際には、予兆が来てからの痛みがどれくらいのものなのだろう?そもそも下まで行けるのか?病院まで大丈夫なのか?と不安に思っていたのだが、幸いにも今は問題なさそうな様子で安心した。病院に向かう車内で会社のslackに連絡をいれておく。今日は頭数に入れないでもらおう。
深夜2時半過ぎ。病院の夜間入口から入り、受付の方に要件を伝えて産院のフロアへ向かう。助産師さんが来て妻は別室へ連れて行かれた。待機室でぼんやりと待ちつつ、深夜なので返事はないかもしれないが…と双方の両親へLINEを送っておく。
ベッドで眠りについてから1~2時間しか眠れていない。今は目が冴えているとはいえ、睡眠不足は確かだ。これから長時間の陣痛と戦う妻を思う。この後めっちゃ眠くなる場面がくるのだろうな…。今まで見聞きした体験談ではここからが長い。どうか痛みが和らぎますようにとテニスボールはバッグに入れている…できることは少ないけど、やれることはやるぞ…!
しばらくして妻と助産師さんが帰って来る。子宮口の開きがまだなので、でごは一旦帰ってもらって、とのこと。あ、私帰るんですか。という顔をしていたら、助産師さんが「旦那さんは寝て体力回復しといてくださいね!」とフォローを入れる。そうか、ここからが長丁場。ただでさえ妻がヘロヘロになるかもしれないのに、サポートしかできない旦那もヘロヘロになっていては仕方がない。そもそも面会規制があるため長居もできない事情もあるのだろう。
助産師さんに妻を託し、先ほど入ってきたばかりの夜間入口から外に出て、近くのコンビニで雨宿りをしながらタクシーを呼ぶ。飲み物を買おうと物色していると、店内で買い出しをしている看護師さんの姿が見えた。夜勤中の買い出しだろうか。自分もかつて入院していたことがあるが、夜間も対応してくださる病院の方々には本当に頭が下がる。そして、こんな夜間でもものの5分ほどで到着してくれるタクシーにも。3月上旬の冷たい雨の夜、タクシーの後部座席のヒーターが冷えた体を温めてくれた。めっちゃ温かかった。感動しすぎて「お尻めっちゃあったかいです」と運転手さんに伝えた。
深夜3時頃に帰宅。のそのそとパジャマに着替えてベッドに横になる。看護師さんの「寝てくださいね」が脳内に響き渡る。
寝れるわけないやろがい。
うわ~~~~~産まれるんか!ひえーーー!無事であってくれ~~~!!!予定日より前に産まれるかな~?なんて思ってたらこんなに早く!10日早いんやけど?というか寝る前にあんな会話してた矢先にね!?ひゃあ~~~!えっえっ、つまり退院するまで一人ってこと?寂しい~~~!!!ベッド広すぎる~~~!!そういえば結婚してからでごが一人で夜を過ごすの初めてじゃない??出張や入院で俺がいないときってこんな感じだったのかぁ~~~広いなぁ~~~。いや~~~~アドレナリン!!アドレナリンウケるwwww眠wwwれwwwないwwwwはあ~~~~。はあ~~~落ち着こ。そういえば育休に入るのも前倒しってことやなぁ。えっと、今日産まれたとして退院まで5日くらい…ってことは最終出社日が…おおおお引き継ぎのラストスパートがんばらんとアカンなこれこりゃ忙しくなるで~~~~うひょ~~~産まれる~~~マジか~~~~!!!!眠れね~~~!!………あまりにも眠れんしちょっとジャンプラ読もか…。…………。いや眠るまえにスマホ見てたらアカンアカン!いや結構読んでもうたけど!読んでもうたけどよ!!読んだ結果眠気が…?眠気が…?きませーーーーん!!!眠気がきませーーーん!!どうせこないならTwitterでも見るか…。文章を読んでたら眠気がくるわけですよね。わかります?こんな時間にTwitterやってる人います…?TLの流れおっそいwwwみんな寝てるwwそれはそう。俺も寝たほうが良い。寝よう。寝れなくても目を閉じよう。閉じる閉じる。さーーーて寝るkン゛ーーーーッ ン゛ーーーーッ
あまりにも想定していないタイミングでスマホが鳴り、慌てて手を伸ばして触ったせいで一回留守電モードになってしまった。慌てて通話ボタンを押す。
「もしもし」「来てくださーい」「はーい」
はやくない????
一気に目が覚め、さっさと着替え直す。タクシーを呼んでいる間にトイレを済ませ、水を飲む。先ほど購入した飲み物を忘れずにカバンに入れて外に出る。時刻は深夜4時前。別れてから1時間程度。
はやくない????
しっかり睡眠をとることもできてないし心の準備もできてない状態の男が深夜のタクシーに揺られて病院に向かっている。こんな短時間でタクシーに三回乗ることあるんだなぁとかそんなことを考えてちょっとウケたりもしていた。
ついさっき出たばかりですけどね…戻ってきました…ハハ…と心のなかで呟きながら夜間入口の守衛さんの前を通り、エレベーターでフロアをあがる。インターホンで助産師さんを呼び出すと検温の指示が出た。インターホンのところにも検温をしろと書いてあったのを見逃していた。どうにも気が急いてしまっている。
分娩室に案内されて引き戸を開ける。子宮口が開いてこれからが開戦!という感じだろうか。ドラマとかドキュメンタリーでよく見る、痛みと戦いながらがんばるやつだよな…!がんばってる妻に寄り添うぞ…!
「はい一回力を抜いて休憩しよか!!!もう頭見えてるよー!!」
「ぅ~~っっ」
これクライマックスじゃないの????
あまりにもクライマックスだった。もう少しなの??ちょっと待ってちょっと待って。ええ~~~~???という混乱半分、まずは入口そばにあるソファに荷物を置いて…あ、妻の出産・入院カバンもここに置かせてもらってるんだね。確かこの中にストローセットがあるからあとで出して上げようね、なんて脳内処理が分娩台に向かう数歩の間に行われた。
妻の横に立つ。めっちゃ痛そう。痛いって言ってるし。手すりを握る手に手を添える。いきむ間の休憩タイミングで手を握る。あまりにもトップスピードでクライマックスシーンにエンカウントしてしまったので半分くらい頭が真っ白になっているが、とりあえず目の前の妻に安心してもらいたい。いや私が横にいようがいまいが痛いし必死だし大変なんだろうけど。
助産師さんが元気に声をかける。「力入れようか!あ~~そうそう、いやちょっと力抜いて~~!」
「めっちゃ難しい指示出とる」と不意に漏れる。「難しいよお…」と妻が返す。ああ、こうやって状況に対するゆるいコミュニケーションが取れるのはいつも通りだ。なんとなく安心した。めっちゃ痛いんだろうけど、めっちゃ痛いなか難しいこと言われている状況を客観的に見てたりするのだろうか。いやそんな余裕はなさそうやな。握る手に力が入る。こちらも握り返す。大丈夫、大丈夫、と声を掛ける。
妊娠がわかり、出産に立ち会うかどうかを初めて考えたとき、正直めちゃくちゃ悩んだ。血や痛い姿にてんで弱く、見ているこちらが顔色を悪くしてしまうおそれがある。
「でごはそういうの苦手だもんね。私も、痛みでどんな感じになるかわからんから、見られたくないかもなぁ」と言われて少し安堵した自分もいた。
それから数ヶ月。妻のお腹も大きくなり、ぽこぽことした胎動を客観的にも感じられるようになるにつれて徐々に考えが変わっていった。お腹に赤ちゃんがいる生活——家事の分担を変えた生活リズム、外出時の歩くペースの変化、胎動にきゃっきゃ言う時間——を三人で歩んできた一つの節目に立ち会いたいという気持ちが強くなった。そもそも子どもが産まれる瞬間に立ち会う経験なんてやろうと思ってできるものでもない。
「やっぱ立ち会いたいな」と言うと妻は快諾してくれた。「あとあれだよね、ここまでずっとでごもいたのに、そこだけ一人なのは不安だもんね」と言ったら「??」と返された。そんなこんなで、私は分娩室で立ち会っている。ストローを差したペットボトルを差し出し給水活動もしている。
想像していた立ち会いシーンの大半がすっ飛ばされて今に至っているけれど、もう本当に産まれるところだ。助産師さんの声にも熱が入る。もういよいよだ。息子に会える。わあっ、と声があがり、一瞬ちらりと取り上げられた姿が見える。産まれた!オギャアオギャアと泣き始めた!はやいはやい。トントンいくな!本当に赤ちゃんってオギャアオギャアと泣くんだなぁ。なんて感慨深く思っているうちに、助産師さんがひょいと見せてくれた。元気な男の子。わあ~~~小さい!小さいけど(人の体から出てくるには)大きい!!という衝撃。人のお腹に入って、人の体から出てくるの?すごいな?あとめっちゃ赤い。赤ちゃんって赤いから赤ちゃんって言うのではないでしょうか。
私のポジションからはよく見えるけど、分娩台に寝ている妻からはよく見えているか?早く見せてあげてほしい。そう思っていると、ちょっと体を拭いてもらった赤ちゃんが妻の胸元に乗せられた。ホンギャホンギャと泣くのに一息ついて、目は一文字に閉じたまま胸元にきゅっと顔を寄せている。か、かわいい。最初はぺっちょりしっとりしていたお肌が瞬く間に乾きすべすべになっていく。たまにうっすらと目を開ける。ひい、かわいい。
それはそうとして結局赤ちゃんの頭とおでこしか見えていないであろう妻に、赤ちゃんの横顔の写真を撮って見せる。「かわいい」「かわいい」本当にかわいい。なんだこの生き物は。よく出てきたね。よく出てきてくれたね。よく産んでくれたね…痛かったね…。
助産師さんが「飲みそうだね」と口元を誘導すると、赤ちゃんがおっぱいにきゅっと吸い付いた。ええ…!人生初の呼吸をした後、人生初のおっぱい飲みもするの…?!実績アンロックが早すぎない…!?このとき私は産まれてすぐに立ち上がりお母さんのおっぱいを探す動物の出産シーンを一瞬思い出し、「確かに動物は産まれてすぐ本能でこういうことができている…」と納得し、生命の神秘にただただ感動していた。
今思うと私の場所は赤ちゃんがとても見やすい特等席だったな。一番がんばった妻にちょっと申し訳ない。でも後日「お互い自分たちにしか見えないアングルがあるよね」と笑っていた。確かに自分のおっぱいを吸う赤ちゃんを見るアングルは母だけの特権だね。
「破水したっぽい」から約2時間半。病院についてからは約2時間。あまりにもはやすぎてお父さん感動して泣く余裕すらなかったよ。絶対に泣いてしまうと思ったんだけれど、状況に追いつくだけでいっぱいいっぱいだったよ。なんならキミが少し大きくなって、当時を振り返りながらこれを書いている今しみじみと感動に浸っているよ。
あまりのはやさに助産師さんも興奮していてなんだかこっちも誇らしくなっちゃうね。産まれる~~!ってときはスパルタに見えていたけど、一緒に喜んでくれる優しい優しい助産師さんだね。こんな真夜中にほんとありがとうございます。
確かに爆速ではあったのだけれど、体験していない私はとてもとても安産~とか楽だった~とかは言えない。私が一時帰宅している間に陣痛で苦しんだろうし、これがどれくらい続くんだ?と不安でもあったろう。出産時もめちゃくちゃ痛かったろうし。その時間が短かったこと自体はとてもよかった。なにはともあれ、とにかく母子ともに無事でよかった。本当によかった。私は本当にいい場面だけ見させてもらって、なんて贅沢な経験をさせてもらったのだろう。これからめちゃくちゃがんばるからね。と思っていると、病院のルールで万が一にも子の取り違えがないように、と足に母親の名前を書く大役を任され、いきなりがんばりポイントが来た。その細い細い足にマジックで名前を書く。達筆じゃなくてごめんね…。
産後の検査等で一時的に赤ちゃんが助産師さんの手に渡り、妻は産後の後処理を施してもらう。助産師さんが「胎盤見ます?」と聞いてくれて、妻は「せっかくなので見たい」と返事をした。人間の体ってすんげえなあ…。私は薄目でしか見れなかったが、妻はこの10ヶ月共に戦い役目を終えた胎盤を眺めて「うわぁ…臓器やん」と言っていた。そうだね。
妻に少なからず出血があるため、しばらくの間分娩室で休憩をとることになる。産後の検査を終えた赤ちゃんがベビーコットに乗せられて帰ってきた。肌着を着せてもらっていて一気に雰囲気が変わった。ベビーコットには産まれた時刻に加えて『(母親の名前)ベビー』と書かれた名札がセットされており、より一層の実感が湧く。自分ではどうすることもできない中、懸命に生きるふやふやの命を前に、心が大変に浄化されていく。あまりにも生きるのに必死な赤ちゃんの姿を眺めながら、当時なかなか暴れ倒していたトランプ氏やイーロン・マスク氏のことが何故か頭に浮かび、「あんな暴れん坊さんも、こんなふやふや無力な時期があったのかぁ。ほんとに?こんな時期があって、その後の生き方であんな暴れん坊さんになることがあるの?ヒトってすごいね…。」と普段の自分では考えることがなさそうなことを考えていた。今抱く感想はそれじゃないだろう。
バシバシと写真を撮り、小さなおててに指を握らせてみたり。その後ろで妻が縫合したり出血の様子を見られたりしている。また特等席にいさせてもらっている。今しか撮れない写真は俺に任せろとばかりにバシバシ撮っていると、助産師さんから「パパはメロメロだねえ」と言われた。そうです。
無事に産まれたことを両親や職場slackに連絡する。助産師さんが席を外し、赤ちゃんの心拍数をモニターする電子音だけがなる静かな空間で、妻に動画を見せたり水を飲ませたり、のんびり赤ちゃんを眺めたり。先程までの怒涛な空間と日常の間のエアポケットに入ったような特別な時間を過ごした。近くの分娩室から別の赤ちゃんの泣き声が聞こえる。泣き声一つとっても声色が違うんだなぁ…。漏れ聞こえた体重が我が子のそれよりだいぶデカくて驚いたりもした。同じ誕生日くん、おめでとう。
2時間程度休憩した後、妻がゆるゆると歩けることを確認したのでここからは場所を移すことになる。いったん赤ちゃんは預けられて大人たちだけとなり、これから入院する病棟の案内を受けながら自室へ向かう。自分だけで過ごすわけではない入院、初めてのことだらけなのにこのタイミングでいろいろチュートリアルが説明されるのは難しそう。
「それでは、面会時間外ですので旦那さんは準備でき次第退室いただいて…」
「あっはい。」
立ち会いは許されるが面会時間外の在室は許されない。これが父親の辛いところヨ……。すごすごと荷物をまとめ、午後からの面会で補充が必要な物資を確認して妻と別れた。
夜間入口から外に出ると、外はとても明るくなっていた。時刻は朝の7時頃、今日という日が始まったばかりなのに、なんだかもう随分と長い時間が過ぎたような不思議な感覚で、この日を二回始めたような気分になった。これから出勤する人たちが駅に向かう姿が見える。タクシーで帰ってもよかったけれど、晴れているなら歩いて帰ろう。
夜に雨が降っていたのが嘘のようにスッキリとした青空が広がっていて、「ああ、自分はこの青空を忘れないだろうな。」と思った。
ということを文章に書くんだろうな、とも思った。
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