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【読書】上橋菜穂子『香君』感想/未曾有の危機を前にした、異なる視座を持つ者たちの思惑と行動の解像度の高さに引き込まれる

今の会社に勤めて数年。経営層や管理職、他部門との距離が近くなったことで、それぞれの『視座』の違いを今まで以上に感じるようになった。例えば、同じ業績報告や今期の着地見通しの数字を見ても、経営層、営業部門、経理、人事とで着目する点が違う。それぞれの『役割』や『立場』により異なるポイントを見て、その数字の良し悪しを図っている…といったところだろうか。この報告が何を意味するのか?何に活かすべきなのか。何を対策すべきなのかをそれぞれの視座で見て、次のアクションを打つ…といったことが日々繰り広げられている。

職場を例に挙げたが、これは家庭でも、また市政でも同様だろう。そして視座の違いや重要視している時間軸の違いなどからコミュニケーションの摩擦が起こることも多々ある。異なる視座から生まれる考え方や価値観にどこまで想像を働かせられるのか…。毎回難しいなと感じている。自分から見れば「なんでこんなことを…?」と思うことも、立場を変えて考えたら至極当然のことだったりもする。そんなことは日常茶飯事だ。

他者のことを考えるだけでこんなに難しいのに、漫画や小説を問わず、様々な登場人物を活き活きと動かせる作家の方々の頭はどうなっているのだろうと思う。もし自分がいろんな登場人物を生み出してみたとしても、基本的には同じような思想になってしまうのだろうな。

登場人物一人ひとりを活き活きと動かす…つまり、彼ら彼女らの立場や考え方、過去の経験を発言や行動に結びつかせ、「その人はこうするよな」という説得力をもたせることとも言える。「勝手に登場人物が動く」なんてことを仰る先生もいるが、それはそこまでに培われた土台あってこそだろう。

彼らが対立したり、すれ違ったり、時に方向性が一致し協力することがあったり…。そうして生み出されるドラマに我々は魅せられているのだと思う。

上橋さんの作品には、その世界の土台となる歴史・文化・土壌があり、『その中で生きる』ことが解像度高く描かれている。文化人類学者でもある…と初めて聞いたときには、国家により異なる文化や生活様式の綿密な描写に納得がいったのをよく覚えている。ほら、路線図やダイヤがめちゃくちゃ好きな鉄分高い方が、独自の路線図や街を作ってしまうような。……あれ、ちょっと違う…?

(以下、『香君』感想です。あらすじには触れますが、特に大きなネタバレはない認識です)

香君1 西から来た少女 (文春文庫 う 38-2)

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文庫版『香君』の解説で脚本家の長田育恵さんは、上橋さんの描く世界を以下のように表現している。私が前半でうわーーーっととっ散らかって書いたことより、最初からこの言葉を借りればよかったのではないか…?

文化人類学者でもある上橋さんの物語世界は常に、細部まで緻密に構築されながらも、土と大気の匂いがする。ページをめくれば広大な大陸や海があり、人々の暮らしが息づいている。急峻な山や渓谷、大河や沃野など、それぞれの土地に根差す民は、風土に応じた文化や信仰を生み出し、国家を築き、歴史を刻んでいる。(中略)
さらに登場人物たちは、辺境に住まう少数民族から、国家の統治者まで、性別も貴賤も多岐に渡る。各々が己の視座から世界を見渡し、心を動かし、意志を持って躍動していくことで、壮大なスケールの物語があざやかに織り上げられていくのだ。

文春文庫 上橋菜穂子『香君』4巻 230ページ

本作は一つの国家の、食料生産と生にまつわる壮大な物語だ。強大な国家を運営していく中で続けられてきた政策の根底が揺らぐ危機が訪れる。国家の存続、人々の生命を脅かすこの事態にどう対処していくのか…というのがざっくりとしたあらすじとなる。いや、ほんとはもっといろんな要素があるのだけど、それはぜひ読んでいただいて…。

知らない国・文化の、知らない政策の危機になぜこうもハラハラできるのか?といえば、そこに生きる登場人物が活き活きと描かれているからにほかならない。「この人は何かをやってくれる…!」という期待を、時に「この人は一体何を企んでいるのか…」と不安を持ちながら読み進めていくことができる。なぜか逃亡する主人公たち、それを追う者たち。のっけからハラハラとする展開だが、まだ何もわからない。そこから徐々に徐々に物語の輪郭が明らかになっていく。ストーリーテリングがやっぱりうまい。

それぞれの立場と思惑の背景が綿密に描かれていることで、「彼の立場としてはこうしたいところだが、確かに国家側からすればそれは困るよな…」など、端から見ている我々は納得しながらも「じゃあどうしたらいいんだ…!」といっしょに苦悩ができる。今そうすべきだが、過去の経緯的にすんなりそうもできない国家のしがらみなど、よく考えられてるなあ!と思いつつ、ページを捲る手が止まらなくなる。

***

『視座』の話では立場や役割を主に取り上げたが、今作では特殊な『能力』を持つ人物が登場する。それが主人公のアイシャだ。類まれな嗅覚を持ち、香りの声を聞くことができる。その能力を持つからこそできること、気付けることがある。植物は虫を呼ぶために、また逆に周囲に危機を伝えるために化学物質を発したりする。虫や動物も同様に、それぞれがわかる方法で何かを伝達している。アイシャはその香りを感じることができる。食料生産に関する話で、香りの声を聞くことができる主人公。……ほら、わくわくしてきたでしょう。

上橋さんがあとがきでこう述べられていたのがとても印象的だった。

随分長いこと、植物に関わる物語を書きたいな、と、ぼんやり思っていました。でも、書きたいイメージが頭に浮かぶことはなく、なぜだろうと不思議だったのですが、やがて、そうか、植物は「静かすぎる」からだ、と気が付きました。

(中略)

植物は化学物質を使って、周囲と様々なやり取りをしている。植物が「静かな存在」だと思っていたのは、私がそれを感じることがなかったからで、植物が発している香りの意味を理解することが出来たなら、彼らが行っている賑やかなやり取りが「聞こえてくる」に違いない

文春文庫 上橋菜穂子『香君』4巻 216-217ページ

そもそも自分が「その立場」じゃなかったから気付けなかっただけなんだ!…ということ、香りだけではなく、いろんなシーンであり得ることだと思う。この感覚は忘れないようにしたい。日々の生活でも、仕事においても同様のことは起こり得る。

立場の違い、得意不得意、経験の有無…それらの要因によって見える世界が異なる。だからこそ、自分とは違う考えがあり、行動があり、時にそれは衝突を生むことがあり、――同志と出会う喜びを得ることもある。

***

本作の主軸である食料生産とその危機、帝国と属国の思惑…物語はもう本当におもしろくて一気に読了してしまったのだけれど、私は特に本作を読み進める中で、未曾有の危機の中で繰り広げられる登場人物それぞれの思惑、行動の説得力―「この立場ならそうなるよな」、「この情報しか手にしていないならそう感じざるを得ないよな」、「その考えを覆すためには今はこうするのが得策だよなぁ」と、登場人物一人ひとりの素直さ、狡猾さ、豪胆さ、思慮深さに魅せられ続け、「世界・文化・そこに住む人々・その人々の思い」を紡ぐ上橋さんの描くファンタジーにただただ圧倒されていたのでした。この感覚にまた浸りたく、実家に置いている「精霊の守り人」シリーズを1から読み返すことを心に決めた。また会おうぜ、チャグム…。

精霊の守り人 (新潮文庫)